(じれったいわ、じれったいわ〜! そしてなんだか、わたくしまで緊張してきましたわ〜!)
それまでゆったりと、女王のように床に寝そべっていたわたくしも思わず立ち上がり、先ほどから落ち着きなく、立ったり座ったりしている息子を、見上げました。
時は残暑を過ぎた九月。ここは町を見下ろす高台の上にある三日月邸、四階の長い廊下の一番奥。御曹司で当主でもある、
そして一見、どこからどう見ても犬である、わたくしの名前はヴィクトリア。
現状、いわゆるジャーマン・シェパードという姿をとってはいますが、生前は、このあたり一帯の土地を代々治めていた、お豊さんこと三日月家の当主、
そして先ほどから、この、壊れたぜんまい人形のように立ったり座ったりしている青年、紫檀の母でもあります。
十二年前、ピアニストだったわたくしは、演奏旅行中の飛行機事故にて死亡。夫であるお豊さんも、この世を去りました。
人の運命など、人にはどうしようもなく、はかないものなのでしょう。
ですがわたくしは、なんの因果か、一匹の凛々しくも美しいジャーマン・シェパードに生まれ変わり、たった一人残してしまった、息子のそばで暮らせるようになったのです。
そして紫檀を、影ながら見守ってきました。
犬――そう、わたくしは犬なのです。
我が息子とコミュニケーションをとりたくとも、ワンと吠えるが精いっぱい。
ですが吠えれば吠えるほど、
「シュヴァルツ……食事なら
と、呆れた目で息子からため息をつかれ、部屋を追い出される日々……。まぁ、お腹は空いているので、食べますけれど。悲しいですわね。
(あっ、シュヴァルツというのは、私の便宜上の名前ですわ。そして小野は長く勤めている執事ですの。絵に描いたような偏屈爺ですが、その忠誠心は本物ですの)
わたくしは、毎日のんびりした犬生活を楽しみながらも、複雑な思いを抱えていたのでした。
そんな悶々とした日々を過ごすわたくしの前に現れたのが、当時高校二年生の女の子だった、スズちゃんです。
彼女は
願いはただひとつ。
紫檀のお友達になってもらいたかったのです。
三日月紫檀――。
わたくしとお豊さんの愛する、たった一人の息子。
莫大な三日月家の遺産を相続した、たった一人の御曹司。
金の糸のような髪に、完璧に整った顔立ち。天使が下界に降りてくれば、きっとこんな姿に違いない、美しい容姿はわたくし譲りです。自慢の息子です。
ですが生まれた時から、息子のブラックオパールに輝く瞳には、何も映っておりません。明るい場所であればぼんやりとした明暗と輪郭がわかるだけ。そのため、視力以外の他の感覚が突出しているのですが、問題は視力のあるなしではなく、その性格です。
生まれて一度も学校に通ったことはありませんが、その道の一流の家庭教師たちに教えを受け、どこに出しても恥ずかしくない教養を身に着けたはずなのに、わたくしとお豊さんが亡くなってからは、一歩も家の外に出ず、ただひとりで過ごすようになってしまったのです。
ええ、いわゆる引きこもりですわ。
まぁ、引きこもったところで三日月家の当主である紫檀は、日々の生活になんの苦労もなく、生きていくことは可能なのですけれど。
とにかく他人に興味がなく、感情を表に出さず、このままでは一生ひとりなのではないかと、心配でした。
ですから、スズちゃんに紫檀の友達になっていただき――あわよくばお互い、好きになってくれないかしらと、思っていたのでした。
ふふっ、誰もが無謀だと思ったことでしょう。
我が家にやってきた迷い文鳥のチッチちゃんだって、『それは無茶だピーヨ』と、言っていましたわ。
ですがわたくしの願いは叶いましたの。
最初はそれほどスズちゃんに興味を示さなかった紫檀ですが、彼女が話のついでとして話して聞かせる、学校のこと、小さな謎、そして人の心の不思議さに触れていくうちに、少しずつ変わっていったのでした。
そしてそれは、スズちゃんも同様でした。
他人とあまり関わりたくないという態度を改めて、少しずつではありますが、友人を増やし、なにか問題が起こっても、自分一人の問題だと抱え込むことはなくなり、紫檀を頼ってくれるようになりました。
まったく似てないふたりですが、どこか似ているところがあったのかもしれませんわね。
長い時間をかけて、お互いの感情に触れて、そしてごく自然に、目の前にいる相手を尊重し、心を通わせるようになっていったのでした。
そして今日、我が息子は決断をしようとしているのです。
なぜ、その決断を知っているかって?
それは――。
あらあら、彼女が来たみたい。
タンタンタン……。リズミカルに近づいてくる足音に、私は顔を上げました。
と同時に、紫檀はただでさえ無表情に見える顔を引き締め、すっと立ち上がり、慣れた様子でドアへと向かいます。
五、四、三……。
時計の針が、夕方の五時を告げようとしたその瞬間。
「わっ、紫檀様?」
内側から開いたドアに驚いたのか、スズちゃんが後ずさるのが見えました。
二年前から伸ばしている髪は背中に届くほど。まっすぐで本当にきれいです。
ここに来るときはいつも学生服でしたが、この春から大学生になった今は、少し大人っぽくなって、ブラウスにひざ丈のフレアスカートというスタイルが基本です。
本当にスズちゃんは、きれいなお姉さんになりました。
そんなの、たとえ目が見えなくたって、紫檀にだってわかっているのですわ。
だからきっと――。
「どうしたんですか?」
スズちゃんが髪を耳にかけながら、驚いたように紫檀を見あげます。
「ああ……」
紫檀は自分からドアを開けておいて、少し戸惑っているようです。
情けない!
うんもうっ、本当にじれったいわぁぁ〜!
わたくしはスッと立ち上がると、
『スズちゃん、こっちに座ってちょうだい!』
と彼女を呼び、ソファーの上に飛び上がります。
もちろん紫檀には、ワンと吠えたようにしか聴こえないでしょうが、いいのです。スズちゃんに伝われば、いいのですから。
「……えっと」
スズちゃんは不思議そうに一瞬首をかしげましたが、紫檀が「まぁいい。とにかく座れ」というのに従って、いつものようにソファーに腰を下ろしたのでした。
二年前からずっと、スズちゃんはここで紫檀に読み聞かせているのです。
「今日の本は……あれ」
紫檀が座る窓際のソファーとスズちゃんが本を読むソファーの間には、ローテーブルがあり、その上に紫檀が指定した本が置いてあるはずなのですが、今日はありません。
「紫檀様、図書室から持ってきますか?」
また、立ち上がろうとしたスズちゃんですが、次の瞬間、息を呑みます。
紫檀が彼女の前に、うやうやしく膝まずいているのです。
ええ、ええ!
「I can not imagine a life without you in it.Will you marry me?」
完璧なクイーンズイングリッシュで、紫檀はスズちゃんに求婚し、そして胸元から、わたくしの形見でもあるダイヤモンドの指輪を取り出したのです。
そう、その指輪は代々三日月家の当主が妻となる人に渡すものですわ。私も過去、お豊さんから頂戴した指輪です。紫檀は何日も前から、私の部屋から指輪を持ちだしては、見えない目でそれをじっとみつめ、指先で触れ、何度もため息をついていたのです。
きっとああでもない、こうでもないと、タイミングを考えていたのでしょう。
「紫檀様……」
全てを理解したその瞬間の、スズちゃんの顔をわたくしは生涯忘れないでしょう。
春の歓喜。夏のきらめき。秋の郷愁。そして冬の清冽な美しさ。この三日月邸から見えるどんな美しい景色だって、彼女の笑顔には叶いません。
かつて紫檀とスズちゃんが最初に解決した謎は、学校の教師の指輪にまつわる事件でした。
ええ、きっと、紫檀はそれをなぞらえて、こうしてプロポーズしたのでしょうね。
よきかな、よきかなですわ!
わたしはソファーから降りて、立ち上がり前足でドアを開けて、部屋を出て行きます。
まぁ、一応わたくしだって母親ですから。
あとはふたりの時間ということで、ここは華麗に退場いたします。
かつては犬の身でいつまで生きられるかと不安でしたが、こうなったらふたりの子供が生まれるまで、見守りたい所存ですわ。
了